2017年1月23日月曜日

なぜ「鋳型」を浄化しなければならないのか

「鋳型」とは、
カルマ、トラウマ、ブロックなどと言うこともありますが、
むしろ、
この二元の世界において、どういう体験を通して、
どういうカルマやトラウマ、ブロックを形成していくか、
その大元になっているようなものとも言えます

それは、
どういう外側の体験をするか、というより、
むしろ、
それらの体験を通して、
どういう「感覚」を常に体験し続けるか、というものです

つまり、
例えば、
人に否定されたり、怒られたり、愛されなかったり、
そういった様々な体験を通して、
いつもいつも体験する内側の「感覚」、
「悲しみ」だったり「孤独感」だったり「罪悪感」だったり「恐怖感」だったり、
その、何かいつもいつも繰り返し浮上してくる「感覚」

内側を非常に注意深く見ていけば、
表面に明確に現れていない時でも、
それは根底でずっと流れている、
もしくは、
全てがそれに色づけられていることがわかります

たとえ成功した体験でも、
何かうれしかった体験でも、
最終的にそれを突き付けられる

あるいは、その裏側に潜んでいる

人生を通して、
ずっと付き纏っている、ある「感覚」

全ての体験が、
それに象られていく

それゆえに、「鋳型」と呼んでいるのです

それは、
内側の観察を本当に繊細に深く見ていかなければわからないかもしれません

あるいは、
二元を超えて初めて、
その姿を捉えられるのかもしれません

それは、水槽の中の金魚が、
水の外に出て初めて、
水が何かを知るようなものです

でも、
きっと誰しもがなんとなく思い当たることがあるのではないでしょうか?

それは、
私たちをこの地上に、
この二元の次元に引っ張り続ける力です

どんなに瞑想で深い境地に達しても、
この「鋳型」を浄化していかなければ、
結局私たちはこの次元にフックされてしまい、
人間の社会に戻ったとたん、
それを突き付けられてしまうのです

私自身の体験、
また、周りの悟りの体験をした人達の体験から、
悟りが自動的にマジカルにこの「鋳型」を全てきれいに消滅させることはない、
ということがわかりました

悟れば何の問題もなくなる、というのは、
誇大化されたイメージに過ぎません

もしくは、悟りに誘うための「方便」ですね(*´ω`*)

もちろん、
ある程度の浄化は自然に起こりますが、
ほとんどの場合、
「鋳型」は「鋳型」として残ります

その「悟り」という誇大イメージに自ら縛られ、
「私は悟ったのだから完全にオッケー」と、見て見ぬふりをしたり、
「私はいない。全てはただ起こっているだけ」と信じ込み、
結局、それに振り回されていても気づかないふりをしたりしている人もいます

悟っても、
顔のシミが突然全部消えないように、
身長が突然変わらないように、
人間存在としての私たちはほぼほぼそのままで残っているのです

というのも、
実は、
「悟り」とは、人間存在としての次元とは全く違う次元を「知る」だけのことなのです

悟った人は、
悟った瞬間、
真の「私」とは、人間としての私とは何の関係もないところのものだと知ります

それは、
映画館で映画を観ている人が、
それまではスクリーンの上の主人公に自己同一化して、
主人公になりきっていたのが、
突然、
ハッと、自分は座席で観ている人だと、思い出したようなものです

座席で映画を観ている人は、
スクリーンに触れることはできても、
その上に映し出されている主人公の本当の姿に触れることはできません

それくらい、
かけ離れているのです

ただ、映画と違うところは、
私たちは同時に人間としても生きている、というところなのです

私たちは実際に、
その映画の主人公も演じているのです

突然、ハッと思い出した人が、
「おおう!こっちが本当の私だった!」とわかっても、
映画の主人公はそのままのキャラで演じ続けています

3枚目キャラが、突然イケメンキャラに変わっていることはないのです(*´ω`*)

そして、
そのスクリーンの中にまたまた放り込まれ、
相変わらずのキャラの主人公としての自分に気づくわけです

「おっとっと、こっちの私としても生きなくっちゃならなかった!」という訳なのです

「あれ?おっかしーなー?悟ったら、聖人君子とか傷つかないスーパーマンみたいになるんじゃね?」
とかぶつぶつ言いながら、
相変わらずの自分もそこにいる訳なのです

悟っても肉体の形が変わらないように、
マインドの癖や精神性、反応の仕方など、
その機能はそれほど変化せず残るのです

人間存在というのは本当に不思議な存在で、
人間の次元と、それを超えたる次元とを同時に生きている存在なのです

それは、人間として肉体を持って生きている限り、
逃れることはできません

ただ、
本当の自分を知った人は、
より、その人間としての人生を誠実に真摯に生きようとするでしょう

より、自分に向かい合い、
より、深く知ろうとするでしょう

でも、そこに、深刻さや執着はなくなるでしょう

本当の自分を体験するということは、
何か、宇宙の叡智、
もしくは「真・善・美」がインストールされるようなものなのです

人間であろうと、魂であろうと、
自分が自分であることに責任を持って生きるようになるのです

神と一体になった人は、
より自分の面倒を見、より自分の責任を持ちます

それは、
母親が自分の産んだ子どもの面倒を見、責任を持つのと同じです

自分に対しても、
愛着ではなく、愛を持つようになるのです

よく、
悟りを求めて来る人の中に、
「自分から逃れたい」という欲求があるのがわかります

自分の内側に苦しみがある
それから逃れたい

マインドから逃れたい、エゴから逃れたい、
つまるところ、
自分自身から逃れ出したいのです

それが悟りへのモチベーションになっていることがよくあります

それはそれで、入口として悪いことではありません

でも、
「あなたはあなたから逃れることはできない」
それが真実です

多くの場合、問題なのは「あなたがあなた」だからなのではなく、
「あなたが自分から逃れようとしている」ことなのです

その問題に立ち向かえるのは、
あなただけです

あなたの中に苦しみがあるなら、
それを取り除けるのはあなただけなのです

あなたが心底で望んでいることは、
あなた自身に見てもらうことなのです

あなたがあなたを受け取ることなのです


だからこそ、
私たちの中には「鋳型」があるのかもしれません

だって、よく見てください

「こんな人生もう嫌だ!」「こんな自分、嫌い・・・」とか本気で思いながらも、
誰だって、そういう自分の人生のストーリーにどれだけの愛着を持っているか

不幸な出来事も、いや、もしかすると不幸であればあるほど、
その人生を手放したくない

自殺は本当の意味での人生を手放すことであるとは思えません

本当に「自分の人生」を手放せたら、
「死ぬ」ことに何の意味もなくなります

自殺は、「幸せに生きる」ことへの絶望なのではないでしょうか
その裏には、激しく狂おしい「幸せに生きる」ことへの渇望、
もしくは期待があるのではないかと思うのです

絶望した時、
「死」に向かうか、
「悟り」に向かうか・・・

大きな分岐点ですね

私ももちろん、
「悟り」に向かった口です(*´ω`*)

話しは逸れましたが、
誰だって、自分の人生を手放したくはないんです

なぜでしょう?

執着?

いいえ、いいえ、
それを「生き切りたい」からです

もし今、誰か幸せで裕福な神様(名前を持った神々)が現れて、
「よし、それでは私の人生と取り替えてあげよう」と言ってきたらどうしますか?

心の深くは何と言いますか?

「ノー!結構です!」
そう、言いませんか?

「私の人生がいいです!」
そう、言いませんか?

そう、私たちは、人間としても「生き切りたい」のです

完結したいのです

完結して、人間を卒業したいのです

そのために、
「鋳型」があり、
その「鋳型」を自分の努力で浄化していくこと

この、「鋳型」を完全に浄化した時が、
最終的なエンライトと言えるのかもしれません

長かった映画も、ようやく「めでたし、めでたし」と、「完」結するのです

私たちは、「Oh! My life is so great!!」と、
充足の声を上げて、万歳をしたいのです

OSHOの言う、「生は祝祭」ですね♪

誰しもが、本当はそれを目指しているのではないでしょうか


違う角度から言えば、
「鋳型」とはこの地上に受肉するためのある種のアンカーのようなものでもあり、
人間として生きる以上、
なんらかの「鋳型」を必要とするとも言えます

なので、「鋳型」が完全に解消されれば、
もう肉体を持っている必要はなくなります

つまり、人間でいる必要がなくなるのです

もし、
来世再び人間として産まれて来たくないのであれば、
つまり、
本当に輪廻から脱したいのであれば、
人間を卒業したいのであれば、
「鋳型」を完全に解消する必要があります

そのためには、
単なるポジティブシンキングではダメです

それは、
道の初めは有効ですが、
叡智につながっていないポジティブシンキングでは、
かえって事の真相から目を逸らしてしまいかねません

繊細な感性と知性を磨き、成熟させ、
誠実に正直に真摯に自分と向き合い、
深くそれを探究し、洞察し、
愛と慈悲をもって、
「鋳型」を解放していかなければなりません

それは、本当に大変なワークではありますが、
でも、実は、あなたが一人でそれをやらなくてはならない、ということではないのです

あなたが真摯で誠実で、真剣である時、
必ず恩寵が助けとして働きます

もちろん、あなた自身の努力がベースですが、
たくさんの存在が、
たくさんの形で、
それを助けてくれるのです

そして、それを成す時、
もはやあなたはあなたの人生に振り回されているのではなく、
本当の意味であなたの人生の舵を取り始めているのです

そこに向けて、
共にがんばりましょう!










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