2016年12月25日日曜日

「鋳型」の浄化方法 その2 1.内面の観察

つづきです

「鋳型」、カルマ、トラウマ、ブロック
それらを浄化するにあたって、
非常に重要なことが2点あります

前回のブログで、
まずはそれらであることを認識することが初めの一歩であると書きましたが、
そのためには、
いつでも自分の内面をクリアに観察するということができなければなりません

浮上してくるパワフルな感情や感覚に無意識であると、
否応なく巻き込まれ、
それらにかき乱され、
常にコントロールされ、
コントロールされていることにすら気づきません

そして、すぐさま反応を返して、
お決まりのパターンを繰り返したり、
余計事態を悪化させたり、
自己正当化に躍起になったり、
あるいは、
無意識にその嫌な感情や感覚を抑圧したり、
それから逃れようと必死になったりします


もちろん、
誰だって、
自分がどんな感情を体験しているかはわかっています

悲しいのに悲しいことがわからない人も稀にいますが、
まあ、通常、人は自分が悲しいことは十分にわかっています

私たちが「意識的である」という時、
それは、単に悲しいとかつらいとかわかっている、という意味ではありません

それらを、「意識的に体験している」という意味です

「気づいている」「気づき」がある、とも言います

思考であれ、感情であれ、何であれ、
自分の内面に起こっていることを全て、
意識のスクリーンに映し出して、
観察しているのです

意識の光を当てている、とも言えます

よく、
白昼夢のように、潜在意識から大した脈絡もなく沸き起こる思考のチェーンにはまり、
ある時、突然、ハッと我に帰り、
「あ、ぼーっとしてた!」と気づく時がありますね

それは、無意識の状態から、
一瞬、意識的な状態にスィッチが入った時なのです

でも、また、次の瞬間には無意識に戻ってしまうのが通常の人ではありますが・・・(;´Д`)

そうやって意識のスィッチを入れたり、
意識的に観察しているのは、「知性」です

よく、内側に「もう一人の自分」がいて、
その「もう一人の自分」に自分がいつも見られている感じがしますね

それが「知性」であり、
最上位(わかりやすく表現すれば)のマインドです

一番精妙なマインド、という言い方の方がふさわしいかもしれません

それは、思考などの粗い振動数のマインドではなく、
微細で高い振動数のマインドです

日本語の感覚で言えば「精神」が最も近いのではないかと思います

「理性」という言葉も、
これを指し示している場合が多いかと思います

魂に非常に近いところに位置し、
魂と密接に関連しているものです

「知性」は、魂が認識するための器官そのものなのです

魂そのものは全てを「観照」していますが、
「知性」なくして、それを意識化したり認識することができません

全ての認識、意識化は、「知性」の役割なのです

内面の自己観察は、
その上位のマインドの働きであり、
魂の「観照」とは異なります

というのも、
実際に魂は、観察されるパーソナリティとは全く違う次元に属しているため、
それそのものだけでは「人間」の次元に関わることができないのです

魂の側から言えば、
「人間」として繰り広げられる全ては、
異なる次元にあるスクリーンに映し出される映像のようなものです

それを見る眼の役割をしているのが、
「知性」なのです

ついでにもうひとつ付け加えれば、
アウェアネスを目覚めさせるために必要なのがこの「知性」です

「知性」が向きを変えて、
「知性」を司る主人そのものに気づく

それが真の「気づき」です

これについては、
覚醒のワークについて書くときに詳しく書きます


この「知性」を発達させていくことが、
実はスピリチュアルな道において、非常に重要になってきます

「知性」が十分に育っていないと、
進化における理解がとぼしいものになり、
本当の洞察力というものを持つことができません

それは、利口であるとか知識が豊富であるということとは、
何の関係もありません

いわば、叡智とつながっているかどうか、です

それは、
ハートと深いところでつながっています

計算高い頭の良さではなく、
むしろ「真・善・美」を知っているものと言えます

「知性」は、
私たちが霊的にだけではなく、
人間として進化していくために不可欠なものでもあります

私たち人間を人間たらしめているのが、
この「知性」だと言えるでしょう

そうでなければ、動物と同じです

純粋な生命維持のため以外に他者を殺したり、他者から搾取したりしない分、
動物の方がまだモラルがあるかもしれませんね(;´Д`)


さて、
この「知性」によって、
私たちは内面に起こることを観察する必要があります

自分の内側で何が起こっているか知らないと、
何も始まりません

「観察」を行う時に特に注意しなければならないのが、
起こっていることに「ジャッジをしない」ということです

通常、
認識と同時に、「ジャッジ」が行われています

感情が起こるか起こらないかの段階で、
すでに「ジャッジ」は起こっています

そして、即座にその「ジャッジ」の結果によって、
自分自身に対する「操作」が行われます

都合のいいように、
自己イメージに合うように、
ごまかしたり、
すり替えたり、
正当化したり、
あるいは、
なかったことにしようとしたり・・・

本当にそれを洞察できるようになると、
あきれかえるほど、あれこれと画策しています((笑)

例えば、
「全ての人を愛する私」という自己イメージを深くに持っていると、
怒りや嫌いという感情を持つことが許せなくなります
自己イメージに矛盾するからです

そのため、その怒りや嫌悪感を隠そうとしたり、
ねじまげて慇懃に表出したり、
あるいは、その怒りを正当化するために、
必要以上に相手を批判する気持ちになったりします
相手を完膚なきまでに悪者に仕立て上げるのです

なので、最初は「ジャッジをはずす」という行為が必要です

そして、何の「操作」もない、
本当の気持ち、本当の感情を知る必要があります

本音、ですね

純粋な感情

それを、

ただ、認識する

ただ、知る

ただ、受け取る

ただ、認める

それは、
自分への慈悲を持って行われるべきことです

といって、
それは自分を甘やかすこととは全く違います

自分を甘やかす人は、
都合のいいように「操作」したものを「本音」として捉え、
他者にそれを強要しがちです

怒りだったら、
相手にそれをぶつけて当然、と開き直り、
悲しみだったら、
相手にそれを癒せ、と迫るのです

「あたしの気持ちは正しくて当たり前でしょ!だから、あんたがどうにかしなさいよ!」
「あんたよりあたしの気持ちが大事なんだから!全部あんたのせいね!」
というニュアンスなのです

そうではなく、
何年も何年も奥底に抱えてきたその痛み、その苦しみを、
ただ、自分でやさしく抱きとめてあげるのです

そこで注意しなければならないことが、
もうひとつあります

自己憐憫に入らない、ということです

自分を甘やかす人は、
自己憐憫が大得意です

「ああ~、なんてかわいそうなわたしィ~」

それは、ねっとりとしたエネルギーを留めるばかりで、
何の進歩も生み出しません

そうではなく、


ただ、フラットに見る

ただ、シンプルに認める

ただ、素直にそのまま受け取る


これらを行っていくためには、
十分に成熟した「知性」が必要であることがわかるでしょう

言葉で言うのは簡単ですが、
実践は恐ろしく難しいのです

幼稚な「知性」では、
まともな観察さえできないのです

それ以前に、「観察」することすら、
しょっちゅう忘れてしまいます(;´Д`)

その重要性を理解できないからです

でも、逆に、
観察を続けることによって、
「知性」は徐々に成熟していきます


そのように、
まずは内面の「観察」から始まります

ごまかさず、
正直に、
自分自身に開いて、
自分自身を信頼して、
自分自身に慈悲の心を持って

これは、
心理だけではなく、
身体上の違和感や不快感にも当てはまります

身体と心はひとつです

心で感じられないがゆえに、
その分、身体がよく感じている人も多くいます

心で拒否できなくても、
身体が拒否する時、
本音は「嫌だ」ということもあります

身体の方が、実はよく知っているということも多いのです

そのどちらもよく観察して、
自分自身を深くよく知っていくこと

それが、
最初の一歩のための準備です


つづく














0 件のコメント:

コメントを投稿