2016年3月31日木曜日

アジズとフーマンの教えの矛盾? 「これ」とI AmとMe その1

先日、
ステート・オブ・プレゼンスのワークをされているとある方から、
メールでご質問をいただきました

アジズの著書と、K氏の『恩寵の扉が開くまでⅡ』を読まれて、
かねてより疑問に感じられていたことのようですが、
おそらく、多くの方が同じような疑問を感じていることと思いますので、
ご質問者の了解を得て、
そのご質問に対する私の答えをアップすることにしました

彼らがシェアしてくれた「道」を歩む探求者にとって、
とても重要な問題だと思われるので、
多くの方が正しい理解を持ってくれたらと、
心から願っています

以下、青字がご質問です
ご質問の前に、『恩寵の扉が開くまでⅡ』からのフーマンの言葉の引用がされており、
それがないと質問の真意がわかりにくいとは思いますが、
ここでは割愛させていただきます

また、ご質問に答えたものに、
さらにわかりやすいように、
少しつけたしもしています


いい機会なので、最初から疑問だった事をご質問させて頂きます。

どんな回答にしろ練習するしかないし、

この道しか知らないので敢えて聞かなかった質問です。



質問1

アジズの教えによれば、

本当の私、IAmは

ステート・オブ・プレゼンスとビーイング(または絶対の境地)、ハートの三つで構成されている、と解釈しています。

しかし、フーマンによると、

ステート・オブ・プレゼンスは「絶対の境地」に至るためのひとつの手段に過ぎないように言っているように思えます。

そして、「ステート・オブ・プレセンス」も「絶対の境地」も本当の私ではないと語っているように感じます。

このアジズとフーマンの教えの矛盾が理解できません。


これについてご意見、ご見解お聞かせ願えないでしょうか?


質問2


フーマンのいう「これ」、「仏陀の本性」とは結局のところ、何なのでしょうか?

アジズが教える「~の境地」や、目覚めの地図にはない状態なのでしょうか?

今でも本当に自分は正しい努力をしているのか、深刻な疑いがあります。


フーマンはいいます。

カルマは非常に強い。

マーヤ(Maya/幻想)は、とてもパワフルだ。

あなたは、その事に気づきもしない。

あなたは自分がスピリチュアルな人間だ、と思っている。

そして瞑想に親しんで、とてもよくやっている、と思い込む。

しかし実際には、正しい方向へは行っていない。

物事が、あなたに相応しいようには起こらない。

それは、絶えず探求し続けているからだ。

探求する事で、マインドはさらに強化されてしまう。

クリスタルの様にクリヤーかな?


全然クリヤーでありません。


ご回答、よろしくお願い致します。


1、アジズとフーマンの教えの矛盾ついて

まず、アジズの言っていることと、フーマンの言っていることに矛盾はありません

矛盾と感じるのは、
二人の言っていることを明確に理解していないところからきます

フーマンの言う「これ」は、魂そのものであると同時に魂のエネルギーフィールドであり、
ステート・オブ・プレゼンスとビーイング、ハートの3つの側面、もしくは次元から構成されるI Amは、
魂のエネルギーフィールド、もしくはエネルギー体を指し示しています

例えて言えば、
太陽と、太陽光線のようなものです

太陽光線は、太陽と切っても切り離せない、太陽からほとばしる光線であり、熱であり、
太陽の質を最も表しているものですが、
太陽そのものではありません

ですが、太陽光線なしに、太陽そのものをとらえることも語ることもできません
太陽光線が無ければ、太陽が太陽である意味がなくなってしまいます

それと同じように、
魂と、魂のエネルギーフィールド、もしくはエネルギー的な現れ、質は、
切っても切り離せないものですが、
完全にイコールとも言えません

フーマンの方がどちらかと言うとアバウトな言い方、捉え方をしていて、
「これ」と言う場合に、明確に魂とそのエネルギー的な現れを識別しているわけではなく、
時によって魂そのものを言い、時に魂のエネルギーフィールドについて言っています

ご質問で引用された言葉においては、
「これ」は魂そのものを指し示しています

アジズの場合、もう少し厳密に、I AmとMeという言葉の使い分けをしています
Meが魂そのもので、I Amがそのエネルギーフィールドとしてとらえることができます

ですが、これも言葉を使う上での制限であり、
実際には、2つがまるで違うもののように、
ここまでが魂で、ここからが魂のエネルギーフィールドと区別できるものでもありません

なぜなら、
魂も、エネルギーだからです

宇宙を構成しているエネルギーと同じエネルギーなのです
魂を構成しているのは、源泉のエネルギーなのです

たとえば、
あなたがいつも使っている愛用のマグカップを誰かに説明しようとする時、
色で言ったり、形で言ったり、模様や、材質、大きさ、
あるいはその波動、あるいはそのエネルギー体で言うか・・・
はたまた、使い心地で言うか・・・持ち具合で言うか・・・
どう言っても、そのマグカップをくまなく、その全体を損なうことなく伝えることはできませんよね?

となると、どうなるか・・・

マグカップは、マグカップです

「マイ・マグカップ」

それしか言い様がなくなります
それが、最大に伝える言葉でもあります
あなたが、「マイ・マグカップ」と言うとき、
その言葉に、マグカップに関するあなたの感覚、あなたの認識の全てを乗せています

そう、「これ」は、「これ」です(^.^)

アジズとフーマンの表現の違いは、
二人の魂とパーソナリティの違いから来るものであって、
二人が指し示しているものは同じです

私たちは、彼らのその言葉から、
彼らがそこに乗せているエネルギーを感じ取ることができます

それが、頭の理解、言葉の上だけで理解しようとすると、
非常に制限されたものしか受け取ることができなくなります

ただし、それが本当にわかるようになるためには、
体験的な理解、
つまり、彼らの言葉を言葉としてだけではなく、
体験的に知ることができていなければなりません

彼らが指し示しているものを自ら実現した時、
初めて、本当に彼らが何を言っているのか、理解できるようになります

そして、その時、
二人の言っていることに矛盾は感じなくなります


また、
「絶対状態(絶対の境地)」は、確かに瞑想の境地であり、
それは魂がまだ顕現していない源泉の状態へと拡大していくことで

にもかかわらず、その瞑想の境地を体験するのが、魂なのです

リアリティは、マインドではとらえきれない在り方で存在しています

その、全ての体験者である、魂が目覚めること、
魂に気づくこと、
つまり、フーマンいわく「真実の自己」の目覚め、
「汝自身を知れ」、
「自己に対する理解」こそが最も重要なことであり、
そこに至って初めて本当にマインドを超える、
つまり二元を超えて、真のリアリティへと行くことができます

それは、アジズも明確に言っています
そう、口をすっぱくして、言ってます(^.^)


ステート・オブ・プレゼンスをキープしようとしているのは、誰か?
瞑想の境地を体験しているのは、誰か?

全てはそこに帰結するのです

「あなた自身」に目覚めるのです

ステート・オブ・プレゼンスやビーイングの質もしくは次元、ハートの質もしくは次元を
深めていくことは、方便であると言うこともできますが、
それは単なる方便ではありません

それらを通して、私たちは魂のエネルギーフィールドに触れ、
それを深め、
そこへと深く入っていきます

それでもなお、
Meに完全に目覚めるのは、別のことです

明らかに、ある時、恩寵によって、
そこへのシフトが起こるのです

それは、
ハートを通して起こります

もしくは、あなた全体を通して起こります

その時、初めて、
人は、フーマンが言っていること、アジズが言っていることが何だったか、
わかります

それは、
あなたの人生のストーリー、マインド、マーヤ、
そういったものとは全く何も関係のない、
それらが全く触れられないものです

けれど、
瞑想を通してそれらを深めていくことなしに、
いきなりMeに目覚めることは、
非常に難しいことだと思います

なぜなら、
人はマインドにべったり糊付けされたままだからです

マインドに糊付けされた状態で、
何のエネルギー的なスペースもなしに、
いくらMeにいきなり到達しようとしても、
実際には「イメージトリップ」してしまうのがおちです

そんな「スピリチュアルな輩」がどれだけ多くいることか・・・・
エネルギー的にはなにも変容していず、
ただ、マインドが作りだしたイメージ上の「私の魂♡」と戯れているだけです

間違ってはいけないのは、
すでにステート・オブ・プレゼンスやビーイングを深めているK氏だから、
フーマンはそう言ったのです

もう、それらが十分に熟し、
真の自己そのものへとシフトしていい時期だからこそ、
そう言ったのだと思います

「絶対状態」へと到達した人は、
ただその境地を楽しむだけではなく、
それを体験している「私そのもの」を知らなくてはならない

そうでないと、
非二元の道を歩む人たちのように、
その微細で透明な体験者に気づくことなく、
「私がいない」という、
浅い理解にとどまってしまうのです

マインドに糊付けされたパーソナリティとしての「私」しか知らず、
それがいなくなることの静けさに、
満足してしまっているだけです

それでは、フーマンの言うように、
単なる一時的なエスケープに過ぎません

アジズいわく、それはネガティブな悟りです

ですが、その体験者である魂、そのMeに目覚めること、
それ以上の幸せはありません
それ以上の充足はありません

それこそが、人間として最高の理解なのです

それこそが、真にポジティブな悟りなのです

魂に目覚めるために、
必ずしも「絶対状態」に到達することが必要な訳ではありません

仏教的なカルマを持つ人だけが、そこに到達したいと思う、と、
アジズも明言しています

ほとんどの人は、何によっても妨げられない、
十分な静けさと安らぎを感じられるビーイングの深みがあれば大丈夫です

それは、魂によります

ですが、「絶対状態」という、
つまり、源泉という、
魂を超えたところに到達して初めて、
魂の全容を見ることができます


後、人によってハートタイプとか言いますが、
現代の教育を受けている人で、
純粋なハートタイプと言える人などいないと思っていいでしょう

たとえ、ハートタイプであっても、
誰であれ、マインドは恐ろしく強化されています

「方便」(瞑想やワーク)なしに、
真のハートに辿り着ける人がいるとは思えません(^.^)

ですから、
両方が大切なのです


2、

これの答えは、繰り返しになりますね

フーマンの言う「これ」、仏陀の本性は、
魂であり、真のあなたであり、
ハートの奥に住む、すべての体験者です

アジズはそれをMe、もしくは魂、
もしくは真の自己、もしくは彼女という言い方をしています
全ての境地を体験しているその体験者そのものです

あなたにとって、
最も親密なものです

あなたの還るべきものです

それは、ただあるものです


「魂」に還る
「魂」に出会う
「魂」として目覚める・・・・

そう、明確な意図を持ち、
瞑想の境地を深め、
そして、ただあるところにとどまり、
限りなく明け渡していく

明け渡して、明け渡して、明け渡し続けた時、
いつか、本当にあなたに「明け渡し」が起こります

その時、
あなたは知ります

あなた自身を
そして、神なるものを

・・・

あなたは、間違った道にいるのではありません
信頼して、がんばってください



1 件のコメント:

  1. こんにちは。
    質問者ではありませんが、素晴らしい回答を有難うございました
    過去記事にコメントを失礼いたします

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