2016年3月31日木曜日

アジズとフーマンの教えの矛盾? その2 何を探求するのか? 

ご質問にあった、フーマンの、
「それは、絶えず探求し続けているからだ。

探求する事で、マインドはさらに強化されてしまう。」について・・・


ほとんどのスピリチュアルな探究者は、
瞑想の様々な境地や悟り、
そういったものを、外側の対象物として探求しています

深い瞑想状態や、神秘体験、エネルギー体験など、
それらは全て、体験されるものです

つまり、
「体験者」ではなく、「体験されるもの」を探求しているのです

そういった体験を追い求め、
そういった体験をすることで、
なにがしか自分が進歩したように感じるため、
絶えず、そういった体験を探究し続けています

そのような探究者は、
常に意識が外側に向いています

もちろん、エネルギー的に変容していくということは、
瞑想が深まっていくことでもあります

ですから、瞑想の体験を深めていくということは、
「道」を歩む上で非常に重要です

ですが、真の変容とは、
そうやって、常に外側に向いていた意識が、
完全に向きを変え、
体験ではなく、
その体験者そのものに向き、
それを「知る」ということなのです

体験者こそが真の内側であり、
そこからすると他のことは全て外側のことになります

外側の何か、ではなく、
真の内側に向きを変える

真の内側を探求する

それが、本当の「道」の始まりです

そして、
その真の内側である体験者そのものを「知る」ということ

それは、
何か新しい体験でもなく、
何か特別な体験でもなく、
いつもずっとそこにあり続けていた真の自分自身へと、
完全にシフトすることなのです

もちろん、それはマインドしか知らなかった人にとっては、
新しく特別な体験です
それでもなお、人はその感覚に非常な懐かしさを感じ、
どこかでそれをずっと知っていたことを、
知っています

それは、非常に新鮮で、同時に非常に懐かしい、親密な体験です

フーマンは、それだけが「リアル」だと言います

なぜなら、それだけが変わらずに、
究極的には何も起きていない次元で、
ずっとあり続けているものだからです

マインドの影響を全く受けない次元です

にもかかわらず、
それを「知る」ことができるのは、
そして、それを人にシェアすることができるのは、
マインドがあるからなのです

本当は、そのためにマインドはあるのです

マインドは唾棄すべきものではなく、
本当は尊重されるべきものですが、
問題は、そのマインドしか知らず、
マインドに主役を取って代わられ、
自分がそのマインドだと思い込んでいる、ということなのです

そして、マインドはとても巧妙であるがゆえに、
自尊心と自己の利益を守り、正当化するために、
ありとあらゆることをして、
自分自身をも欺いています

スピリチュアルな道を歩む上で、
自分のマインドの仕組み、それがどう働いているかを、
見抜いていける洞察力も必要になります

でも、本当の意味で、それができるようになるのは、
マインドが「落ち」、マインドとの同化から完全に抜け出した時です

だからこそ、それが「解放」なのですね

でも、マインドのスィッチがオフになっても、
扇風機のように、数年から十数年、マインドは徐々に動きを遅めながらも回り続けます

それを浄化していくことが、
実際には必要になります

でなければ、
また人は知らず知らずのうちにマインドの奴隷に引き戻ってしまいます

それを知っているか知らないかで、
覚醒後の進化が違ってきます

そのことを念頭に置いて、
星の数ほどの「霊的教師」を見定めてください


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