2016年2月9日火曜日

1枚の写真

昨年末に、ある方からメールをいただきました
とても衝撃的で、心に強く残る写真を送ってくださいました

北朝鮮のミサイル発射、ISの行動、阿部内閣の取ってきた政策など、
世界は今、あるひとつの方向へと進んでいるかのようです

言葉を尽くして、戦争反対、世界平和と言うよりも、
その送ってくれた1枚の写真の方が、はるかに多くのことを私たちに伝えてくれます

私もこれを周りの方々にシェアしたいと思い、
ブログへの転載の許可をお願いしたところ、
快諾してくださいましたので、
遅くはなりましたが、ここに転載させていただこうと思います

以下、その方のメールからの転載です

* * *

この写真は、Joe O'Donnell(ジョー・オドンネル)というアメリカ海兵隊の従軍
カメラマンだった人物が、1945年(昭和20年)9月に日本で撮影したもの
です。場所は原爆被爆直後の長崎でした。

O'Donnell という名前からして、彼はおそらくアイルランド系のアメリカ人だっ
たと思われますが、2007年8月にテネシー州ナッシュビルで亡くなりました。
享年85歳で、死因は脳出血だったとのことです。

氏が亡くなった後、夫人がこの写真を長崎市に寄贈し、長崎市ではそれを原爆資
料館に展示することに決定したということが当時少し話題になりました。

写真では、裸足で粗末な服装をした少年が直立不動の姿勢で幼児をおぶってい
す。かつての日本の町や村では、こうして弟や妹を背負った子供達の存在という
のは、ごくありふれた風景でした。

少年が背負っている幼児は、ぐっすりと眠り込んでいるかのように見えなくもあ
りませんが、実はそうではないのです。少年は、原爆症なのか、他の病気、ある
いは栄養失調なのか、ともかく亡くなってしまった弟(たぶん)を背負って、焼
き場に来て、多くの遺体を焼却している現場で、じっと自分の番を待っていると
ころなのです。

以下は、オドンネル氏がこの写真をアメリカ空爆調査団のカメラマンとして撮影
したときの回想インタビューからの引用です。

<引用開始>

佐世保から長崎に入った私は、小高い丘の上から下を眺めていました。すると白
いマスクをかけた男達が目に入りました。男達は60センチ程の深さにえぐった
穴のそばで作業をしていました。荷車に山積みにした死体を石灰の燃える穴の中
に次々と入れていたのです。

10歳ぐらいの少年が歩いてくるのが目に留まりました。おんぶひもを、たすき
にかけて、幼子を背中に背負っています。弟や妹をおんぶしたまま、広っぱで遊
んでいる子供の姿は当時の日本ではよく目にする光景でした。

しかし、この少年の様子ははっきりと違っています。重大な目的を持ってこの焼
き場にやってきたという強い意志が感じられました。しかも裸足です。少年は焼
き場のふちまで来ると、硬い表情で目を凝らして立ち尽くしています。背中の赤
ん坊はぐっすり眠っているのか、首を後ろにのけぞらせたままです。

少年は焼き場のふちに、5分か10分も立っていたでしょうか。白いマスクの男
達がおもむろに近づき、ゆっくりとおんぶひもを解き始めました。この時私は、
背中の幼子が既に死んでいる事に初めて気付いたのです。男達は幼子の手と足を
持つとゆっくりと葬るように、焼き場の熱い灰の上に横たえました。

まず幼い肉体が火に溶けるジューという音がしました。それからまばゆい程の炎
がさっと舞い立ちました。真っ赤な夕日のような炎は、直立不動の少年のまだあ
どけない頬を赤く照らしました。

その時です、炎を食い入るように見つめる少年の唇に血がにじんでいるのに気が
付いたのは。少年があまりきつく噛み締めている為、唇の血は流れる事もなく、
ただ少年の下唇に赤くにじんでいました。

何度見ても涙が出てくる写真と回想です。

これを撮影した氏は、1946年にアメリカに帰国後、1968年まではホワイ
トハウス付のカメラマンとしてトルーマン大統領を始め、歴代の大統領に仕えま
した。そして、この写真を含めて軍や政府の意図にそぐわない写真の多くを、
ネガのままで自宅のカバンにしまい込んで封印していたのだそうです。

この1枚をはじめ、戦争の悲惨さを伝える写真の多くの封印を解いたのは、氏が
1989年に米国内の反核運動に触発されてかばんを開けた時でした。1990
年、アメリカで原爆写真展を開催しましたが、ワシントンのスミソニアン博物館
での展示は、アメリカ在郷軍人会の圧力に遭って中止になったと聞きます。いか
にもありそうなことです。

その後、1995年に、封印を解いた写真を使った写真集「トランクの中の日本」
(小学館)を日本で出版しました。でもその時は、アメリカではまだ出版はでき
ませんでした。

写真の中の、足に浮腫がみられ、自身の健康状態も決してよいようには見えない
兄の少年は、その後どんな人生を歩んだのか、氏は手を尽くして再会を望んだの
ですが、ついに果たせなかったと聞きます。

私の世代は、こうした悲惨を伝聞ではありますが、自分達の直前の世代が体験せ
ざるを得なかったこととして捉えることが、かろうじてできた世代です。それだ
けに、こうしたこととまったく縁遠い、後に続く世代の人々に、そのことを如何
に伝えるかという大きな責任を負っています。私もその責任を持つ世代として、
残された人生の中で、微力ながらできることをしたいと思っております。

「戦争反対」などと言うことは、「火事反対」と言っているように愚かで意味の
ないことだと、私のような考えを持っている者を非難する言説をどこかで見まし
たが、私の理解はまったく異なります。あえてその人の表現スタイルを使うなら、
私が「戦争反対」と言う時、それは「火事反対」ではなくて、「放火反対」と言
っているのです。戦争は決して自然発生的な災害ではありません。それは特定の
人々によって、意図的に引き起こされる「放火」なのです。そこには起こそうと
躍起になって活動する勢力が必ず存在します。

1930年代の日本を思い返しますと理解しやすいと思いますが、戦争が拡大し
ようとする時にも「慎重論」や「拡大すべきでない」という不戦論を持つ少数の
国民や言論人、政治家、外交官が確かに存在していました。しかし「放火」勢力
は大衆を煽って、批判者を徹底的に押さえ込み、異論を排除するばかりか、文化
や風俗、そして趣味さえも統制下に置く恐怖の統治構造を作っていったのです。
皇国史観という反知性主義イデオロギーが国民全体を戦争協力一色に追い込んで
いきました。そして結果はあの悲劇でした。

つらく重いことばかりを申し上げて本当に申し訳ありませんでした。こんなこと
だけを書きたくはなかったのですが、まだ現役を引退することができない一市民
として生きている現在、最も気になることを書かせていただきました。同時に、
まだまだ元気で生きなければという思いを強くしております。




0 件のコメント:

コメントを投稿