2016年1月10日日曜日

憐み

新年明けましておめでとうございます

新年の挨拶をする暇もなく怒涛のように過ぎたお正月でした( ;∀;)

でも、その怒涛の流れの原因となった母との関係に、
昨年の暮れからずっと取り組んできたのですが、
先ほど、ようやくその答えを受け取ることができました(*^^)v

昨年の暮れ、母が転んで軽くおでこをぶつけて、かわいいたんこぶを作っただけなのに、
不安から、救急車を呼び、入院するという騒ぎを起こしてくれました
これで、3年連続、伊豆から呼び戻されることになりました

命に関わるようなことは一切なく、普通なら「あー、痛かった」で終わることが、
自分で大げさなストーリーを作り上げ、どんどん自分で不安にし、
心理的に悪い具合を作りだし、
あげく、「生死をさまよった」などと大騒ぎをしたのです

でも、実際は、小さなたんこぶ、作っただけなんです(;´Д`)

もちろん、本人は意識的にそうしている訳ではなく、
潜在意識的にそうしている訳なのですが、
傍から見ると、「アホか?!」と思うほど、大したことないことで大げさに騒ぎ、
人を振り回すのです

もちろん、不安も強いのですが、
そうやって、注目を集めるために周りの人の気を引いて振り回し、
自分の中に空いた穴を埋めるために人からエネルギーを奪っていくというのが、
昔からのいつもの母のやり方なのです

年老いたからそうなっている訳ではなく、
若い頃からずっとそうなのです

他者には本当には何の関心もなく、自分のことしか関心がない、いわゆる自己チューで、
しかも、自分の身体のことしか関心がない、いわゆる不定愁訴で、常にどこかの具合が悪く、
歩く病気辞典とも言えるほどの、病気依存、薬依存です

というか、病気が印籠、
人の関心を自分に向け、人を使い、人からエネルギーを奪うための印籠なのです
だから、病気になると非常に嬉しそうで、人に武勇伝のように話します

母は、自分のために他の人が犠牲になって尽くすのが当たり前で、
人の気持ちや、そのためにどれだけの犠牲を払っているかなど、全く思い至らず、
当然のこととして周りの身内に犠牲を強いてくるのです

また、自分の思い通りにするために、非常に不快なエネルギーを使い、
人の心をえぐることを平気でしてくる人です

そのため、母は、今までの人生の中で、
周りの身内から激怒され、
「謝って!」と言われることを何度も繰り返しているのですが、
本人はなぜそう言われるのか、全くわからないのです
そして、自分が犠牲者になってしまうのです


そういう母に、暮れも振り回されて、
伊豆と東京を3往復もさせられ、
伊豆でたまっていた仕事もほとんどできずに消耗し、疲れ果て、
さすがに辟易してしまいました(-_-)/~~~
もう、うんざり、勘弁して、って感じです

エネルギー的に、うわあっと私に覆いかぶさり、纏わりつき、
タコの足の吸盤のようなもので無遠慮にエネルギーを吸い取っていくのです

そのため、母といるだけで、私はエネルギーが枯渇していってしまうのです

母は幼児の頃から精神的に成長していず、
私たちに彼女の母親であることを強烈に求めるため、
幼い頃から、エネルギー的に母親役をし、母を背負っているのは私の方でした

誰しも、インナーチャイルドは抱えていますが、
母のインナーチャイルドはあまりにも強く、強烈なのです

そのため、ある意味、母は強烈な反面教師になってくれていて、
たくさんのことを学ばさせてくれてはいるのですが、
そういう親子関係にずっと幼い頃からひどく苦しんできていました

まあ、その苦しみがあったからこそ、この道に入れたのではありますが・・・

この道に入ってから数年経った時に、
一度「母越え」をしているので、
それからは母のことを愛し、
大きく包み込むことができるようになってはいましたが、
どうしても母のことを人間として尊敬できないし、
素直に「好き」とは言えずにいました

なので、母のことを「好き」って言えたら、どんなにいいだろう、
そうしたら、自分の事も本当に完全に受け入れ、愛することができるんだろうな、と思っていました

そのためには、もう一段、私が進化しなければいけないことは、わかっていました


11月か12月位から、パートナーさんと母との間でも、
そういった問題が表面化してきていました

東京にいる間、私はほとんど連日仕事に出ているため、
実際に母の面倒を見てくれているのはパートナーさんなのです

優しく、気の長いパートナーさんも、
人への要求が強く、それでいて、
いつも人の気持ちを踏みにじる母に、さすがに限界を感じ始めていました

同時に、パートナーさんも、何かを学ばなければいけない時だと、
母との関係に向かい合っていきました

その流れの中で、最終的に暮れの母のその大イベントが起こりました

毎回呼び出されている叔母も、いい加減にカンカンに怒っていました

その叔母の怒りに触発されて、
私の中にも母への怒りが沸き起こってきました

こんなバカげたことで振り回され続けること、
いつも理不尽にエネルギーを奪われていること、
そうしなければ罪悪感を持たされてきたこと

母に、そういったことを話しても、
母はすぐに犠牲者になって余計に自分の具合を悪くして、
私たちの気を引こうとするだけなので、
それを繰り返しても消耗するだけだし、
母だって好きでそうしている訳ではなく、
そうしかできない訳だし、
といって、母に無尽蔵にエネルギーを渡していれば、
私が倒れてしまうし、
もう、それはうんざりだし、
どうしたらいいのか、何が答えなのか、
ずっと見てきました

そのプロセスの中で、どうしても手放せなかったのが、
やはり、母に自分が何をやっているのか気づいて欲しいということ
母が一人の人間として、母の課題をクリアして欲しいということ
母は日蓮宗のマイナーな宗派の信者なのですが、
信心を持っている以上、できればこの生の中で可能な限り、霊的進化も遂げて欲しいということ

一人の人間として、
母も一人の人間として進化して欲しいという思いは、どうしても手放すことができませんでした

そうしてワークしている中で、
病院の医師が「リハビリのために後数日入院したらいかがですか?」と言ってくれたのを機に、
母をそのまま入院させて伊豆に帰ることにしたのですが、
その時に拗ねてロクに口も聞かない母の姿を見て、
私の中に「憐み」が沸き起こったのです

一人病院にいる母が気の毒なのではなくて、
人間としてそういうあり方しかできない母が心底「憐れ」に感じたのです

今まで、人を「憐れむ」というのは、
何か人を下に見ているようで、傲慢なようで、
ずっと抵抗がありました


でも、その「憐み」が起こった時、
私は母のとても近くにいました

母に寄り添っていました

何かが私の中で落ちたのを感じました

でも、それでこのワークが終わったわけではありませんでした

3日程前、決定的なことが起こったのです

お正月は私の子ども達も来て母も一緒に楽しく過ごしましたが、
問題は、今回伊豆でリトリートを行う間、
母を一人で東京に置いておけないということでした

生活自体は一人でも大丈夫なのですが、
こういう場合、必ず何かを引き起こして私たちを呼び戻そうとするからです
ここ3年間の実績がそうであり、
まさに強度の「依存」の人で、私たちのことは何も考えていないどころか、
仕事の重要性も理解できず、自分で生きようともせず、
「何か起こせば、病気になれば、転べば、私のところに来て私の面倒を見てくれる」と、
そのパターンを繰り返すのが目に見えているからです

お正月の間も、何かと否定的なことを言って、
私やパートナーさんの心をえぐり、
エネルギー的に覆いかぶさって来る母に、
再び「はあ~っ」となりつつ、
リトリートの間母をどうするか、私とパートナーさんとで奔走しました

ショートステイはどうしても嫌だという母のために、
お泊りで利用できて、母が息詰まらないで過ごせるデイホームを探したり、
伊豆で滞在できるホテルを探したり、
でも、母にとっては自宅で過ごせる今の生活をできるだけ維持しながら、
非常時に備えておくのが一番いいのではないかと思い、
家政婦さんを雇って非常時に来てもらえる算段を探したりしましたが、
そうやって走り回って疲れ果てている私たちの姿を見ていながら、
母の下した結論は、「ショートステイに行く」というものでした

母としては、本当は私たちが仕事を放棄して、母と一緒にいることを期待していたのです
もう、本当に子どもな人ですが、
それが叶わないことがわかると、私たちに罪悪感を持たせるためにそういうことをするのです

それはそれでいいのですが、
ショートステイを利用するにあたっては、利用料を下げるためにも、
たくさんの書類を書かなくてはなりません

資産から収入なども調べて書き込まなくてはなりませんし、
通帳のコピーから何から、揃えるものがたくさんです
全ての荷物に名前も書かなくてはなりません

私が仕事に行っている間に、
それを必死にすでに疲れ果てているパートナーさんがやってくれていたのですが、
夜、私も一緒に書類に書き込みをしている時に、
母がそれに関して、
パートナーさんに対して非常に不快なエネルギーを投げつけるということが起きました

そうやって、いつも感謝するどころか、自分の思いと違うために、
文句を言って不快なエネルギーを発するのです

さすがの理不尽さに、パートナーさんも怒りが爆発しました

でも、なぜパートナーさんが怒ったのか、母にはわからないのです

怒られればしょぼんとなりますが、
なぜ相手が怒っているのか、わからないのです

自分の言葉が、エネルギーが、どれほど相手を傷つけたり、えぐったりするか、
あるいは、相手にとってどれほど理不尽か、わからないのです

いや、あるレベルではわかっているのですが、
それよりも自分の思いが強すぎて、むしろ、それを押し通そうとするために、
それを使うのです

そういう方法しか知らないのです

そういう母の姿は、ある意味、本当に強烈な「鏡」にもなり、
自分自身を見て行くための教訓にもなります

こういう母に育てられている以上、私も必ずどこかで同じことをしているのだと、
自分自身を見て行くことができます

そうやって自分を見ながら、
仕方ないので、とにかくしょぼんとなっている母をなだめながら、
翌日に備えて荷物を全部まとめ、
母をお風呂に入れました

背中が曲がっているのですが、ひどく片側にねじれているのを見て、
それをさすりながら言うと、
母はいきなり「そうよー!曲がっているのよ」と、いばり始め、
「だから私を労わって」エネルギーをぐわーっと出して来たのです
「私は労わられて当然!」と、いばり始めたのです

あれー、いばってるよ、この人・・・そう、この人は病気とかそういうことをいばるんだよね・・・

その時にまた、「憐み」が私の心に沸き起こりました

背中がひどく曲がっていることがかわいそうに思ったのではありません

そういう風に、自分で自分に責任を持って生きていくことができず、
人に依存することでしか生きられないことが、「憐れ」だったのです

そういうことが起きて、
翌日、母はショートステイに行き、私たちは伊豆に戻って来ました

そして、先ほど、パートナーさんと話していて、
その「憐み」のエネルギーを改めてよく感じてみると、
ベースにあるのは愛であることがわかりました

今まで、人を憐れに思うことに抵抗がありましたが、
実際に起こった「憐み」を体験してみると、
相手を下に見ることもなく、むしろとてもその人の近くにいて、
寄り添い、その人の深いところの痛みを共有していることがわかりました

そして、それを私に教えるために、
母がそういう強烈なパーソナリティを持って私の母となってくれていたんだと思いました

私の中に、母に対する感謝が沸き起こりました

以前、母越えが起こった時も、
表面的な母の姿の奥にある、「魂としての母」の思いに対する感謝があふれました

そして、今回も、それが起きました

「憐み」が起きる時、
初めて、本当に「魂としてのその人」に出逢うことができるのかもしれません


そして、真の「憐み」は、愛から沸き起こるものであることがわかりました

私が今後、母のことを「好き」と本当に思えるかどうかはまだわかりません

でも、今まであった母に対する「嫌悪感」は確実に消滅しています


そして、この「憐み」という深いスペースにようやく辿り着いたことに、
大きな感謝を感じています


今年は、違う段階の年になりそうです(*´ω`*)



神様、ありがとう
そして、お母さん、ありがとう










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