2016年1月13日水曜日

とあるリトリートでの、とある瞑想 ~ガイダンスと自分自身を保つワーク~

鼻から息を吸って
吸った息を頭の中のアウェアネスへと

そして息を吐くときに、それを頭の中でリラックスさせていきます

息を吐くごとに、それを手放さないように頭の中でリラックスさせ、
息を吸うごとに、再びアウェアネスを強め、そこでしばしキープし、
苦しくなる前に息を吐き、リラックスさせます

最初の数分間、その呼吸を続けて

行為の中でアウェアネスを失わないために、
瞑想中は100%頭のエリアの自分自身へとフォーカスします

暗闇を見ている自分自身を見つけ、
そこへ呼吸とともにエネルギーを入れて活性化させていきます

すると、頭の中がビリビリするような感覚や、
あるいは、何かが振動しているような、そのアウェアネスが振動しているような感覚を持つこともあります
そこに光を感じる人もいます
内なる眼で見ることのできる光

あなた自身がそこにとどまればとどまるほど、
それはエネルギー的に活性化していきます

すでに、自分自身を見出すことに努力を必要としない人は、
リラックスした中で、ただそれに、なる

外側からそれに、自分自身に気づいているだけでなく、
それそのものになっていきます

そこには、わずかなシフトがあります
わずかなという意味は、
あなたが今感じているもの、とどまっているもの、
それとなんら変わらないそこへと、さらに深くシフトしていくということです

アウェアネスのワークの最初、
まだそれは、お腹の中にいる胎児のようなもの

お腹の中の胎児が、肉眼でとらえることができないように、
最初の頃、人はその自分自身をクリアに認識することに難しさを感じます

でも、何度も何度もそれを取り戻し、
そこにとどまっていることを繰り返しているうちに、
胎児はどんどんとお腹の中で成長していきます

胎児が成長するにつけ、
母親のおなかが大きくなって、
外から見てもそこに赤ん坊がいることが明らかにわかるように、
あなたの中でその自分自身は、明らかになっていきます

あなたはより楽にそれを認識し、
より楽にそれをキープしていくことができるようになります

すでにあなた方二人は、自分自身を認識することに、特に大きな努力を必要としません

あなたがもし、それをキープすることに困難さを感じているとしたら、
それはあなた自身を認識する難しさではなく、
あなたがそれをキープし続けていかなければならないということを、
覚えていられないことによります

マインドは忘れっぽく、
次から次へと外側のことに興味をそそられ、
自分が今何をしているのかを忘れ、
外側の刺激に自らを彷徨わせます

問題なのは、マインドのその忘れっぽさです

もし、あなたがアウェアネスをキープすることがどれほど重要であるかを、
真に理解したとき、
あなたのその忘れっぽさは軽減されていきます

だから今の段階では何より、
あなたにとっての関心事が、
自分自身を保つこと、それに向けられていなければなりません

もし他に、何かあなたの気を引く関心毎があれば、
あなたはそれにうつつを抜かし、自分自身をキ‐プすることを忘れてしまいます

どれだけあなたが専心できるか
どれだけあなたがあなた自身をそれに捧げることができるか

それは人生のうちの何年間も費やすワークではありません
あなたがどの程度専心するかにより、
それは短くもなり、長くもなりますが、
長い人生の中で、ほんのわずかな期間、それに専心するだけで、
あなたはそれを成就することができます

かつて、人類の意識自体がまだそれほど進化していなかった時代、
それを得るために、人は何世も費やす必要がありました

ほんの数十年前ですら、それは何年もかかるワークであり、
もしくはその一生を捧げるワークでした

ですが、この数年間の節目を迎えた人類全体の進化のアップにより、
今は、ほんの数週間から数年、その人によって、
その時間を専心することによって、そのことを成就することができるようになっています

そのことを真に理解すること

あなたが今体験している、あなたのその意識のセンターである、自分自身と言う感覚
私という感覚
それを認識し、それにとどまっているということが、
どれほど貴重なことであるか

あなた自身がそれを成していることを、あなた自身で高く評価すること

もしあなたが、意識のエリアのあなた自身に真にとどまり、
それそのものになった時、
あなたはその状態がすでに開けた空のように、
何の障りもなく、何の妨げもなく、
無碍無障の広大なスペースであることがわかります

それそのものが、すでに至福と平安の質を含んでいます

それゆえ、
昔の人は「私がいない」状態だとして、それをとらえました

ですがそれは、純粋な私である状態と、
エゴを含んだ私であることの明確な区別がないことによる、浅い理解です

その浅い理解によって、人は、探究者は、
「私」がなくなることを探すという、大きな過ちを犯してきました

私がなくなるのではなく、私そのものになった時、
それは透明であること
何も障りがなく、何も妨げがなく、無限に拡がるスペースであること

だからこそ、あなた方が、もし、本当に魂に辿り着きたいと願うなら、
あなたが探究するのは、あなた自身

あなたがいなくなることではなく、
あなたがあなたになること

あなたがあなたになること、
その究極で、あなたは溶けて、あなたはさらに大きなものの中へと溶け去っていきます

ですが、それは、決してあなたを迂回してそこに到達できるわけではありません

あなたが人間である以上、
様々なニーズや、必要とするものをたくさん持っています

食べ物はもちろん、きれいな空気、人間らしく生きられる環境、
誰か、あなたと分かち合える親密な相手

そういったものを、欲求する心を全て否定する必要は全くありません

それは人間としてごく自然なことです

人間は、一人で生きて行くようにはできていません

人間は集団で生きていくように、その身体の構造からして成っています

心の作りもまた、それによって満たされる構造になっています

だから必要最低限のそれらを満たす、そのことそのものに、何の悪いことも、
あなたがあなた自身であることを妨げることもありません

ですが、もしあなたが、求める先を間違える時、
あなたがあなた自身、そして、あなたをここへ創造した創造主との、
その関わりにおいて満たされるべきものを、
外側の他のものへと投影した時、
あなたはそこで苦しみを体験します

だからこそ、
あなたが本当は何を求めているのか、
何を探しているのか、
何を手に入れたいと思っているのか、
それを真に理解していくことが重要です

そうでなければ、
人は何かを、たとえばお金を、たとえば名誉を、たとえば成功を、
たとえば恋人を、たとえばとても親密な人を、たとえば家を、
そういったものを手に入れれば自分が幸せになると思い続け、
それを探し続けること、それそのものが幻想だということ

つまり、それらを手に入れたら幸せになるということが幻想だということ

それら全ての幻想で、この社会は成り立っています

この次元のリアリティ全てが、
そういった意味で幻想なわけではありません

ここのリアリティは、ここのリアリティとして、確かに存在しています

だからあなたは、ここが全て幻想だからといって、
ここからエスケープすることはできません

あなたが肉体を持って生きている限り、
あなたはここからエスケープすることはできません

そうではなく、
あなたが何をすれば、何を手に入れれば、
本当に満ち、充足され、幸せになるのか

そのために思い描いている様々なことが幻想であり、
そこで作りだされて行くストーリーやドラマ、
それら全てが幻想だということ

真のリアリティは、
あなた自身に根づくということ

その内なる次元へと、根づくということ

その内なる次元こそが、真のリアリティであり、
あなたが存在しているところ

自分自身に気がついて
そこにとどまって

あなたがより簡単にそこにとどまれればとどまるほど、
あなたはそれに対して歓びを感じていくようになります

ある地点まで来れば、あなたはもはやそれを失いようがなくなります

***

もし思考が出てきたら、ただそれを流れるままに
それにエネルギーを与えず

瞑想としうのは、ある意味、潜在意識の蓋を開ける行為でもあります
そのため、ある時点で、普段より多くの思考が湧き出ることがあります

それを覚えておいてください

そして、それもプロセスの一部であることを理解し、
どんどん不要な思考を、あなたのその虚空の中へと解放していくこと

私たち人間の潜在意識は、
たくさんの抑圧されたもの、
たくさんの表現できなかった思い、
たくさんの外側から押し付けられた様々な条件付けや信じ込み、
たくさんのそういったごみで満杯になっています

そしてそれらは、あなたというただひとつの籠に入っているものではなく、
底の方で、人類全てに共通する底なし沼のようにつながっている、
そういった類のものです

あなたが無意識であれば、あなたはいくらでもその沼から、
そういったごみを取り込んでいきます

あなたがアウェアネスにとどまっているということ、
それそのものが、その暗い淀んだ潜在意識に、光を当てることになります

あなたが無意識である時、
あなたはただその潜在意識の1パターンとして生きています

あなたが意識的になった時、
それは、一般的な何かに意識的になるという意味ではなく、
本当にあなた自身のステート・オブ・プレゼンスが目覚めた時、
意識のエリアの真のあなたが目覚めた時、
あなたは真に意識的であると言うことができます

その時あなたは、その潜在意識を超える

あなたが属しているのは、もはやその潜在意識ではありません

あなたはより高次の、より純粋な、そしてより深いものに属しています

そこから、その潜在意識を包み込む

さらに、もう一度自分自身をクリアに認識して

認識できたら、ゆっくりと目を開けてください

それを失わないように

そして、ゆっくりと目を開けながら、
その自分の中で、ステート・オブ・プレゼンスを感じている感じ方

それがどのように変化していくかも、よく感じてみてください

目を開け、外側のものが目に入り、
注意がそれに向いていくと、
当然自分自身への注意がその分、減ります

それでもなお、あなたは自分自身をキープしている

目を開けた状態で、
自分自身をキープし続けられるかどうか

もし、目を開けた瞬間に失ってしまうようであれば、
また目を閉じて、それを認識し、
また目を開けて

目を開けた状態でそれを保っていられるようであれば、
今度は、真ん中にあるローズクォーツを見てください

自分自身を感じながら、それを見ています

では次に、自分自身を感じながら、私を見てください

あなたは、自分自身を感じながら、そこから私を見ています

次に、自分自身を感じながら、私の後ろの窓を見ましょう
そして、外の景色を見てください

そこに何があるか

今、あなた方は自分自身を保ちながら、外の景色を見ています


それでは、その状態を保ったまま、ゆっくりと立ち上がってください

あなた方は立ち上がってもなお、自分自身を保っています

では、その状態を保ったまま、自由に部屋の中を歩いてください

あなた方は、自分自身のスペースから歩いています

あなた自身が歩いています

歩きながら、外を見、カーテンが風に揺れているのを見ます
ろうそくの炎が揺れているのを見ます

ですが、あなたはあなた自身にとどまっている

それでは次に、5歩歩いてはしゃがんでみてください

5歩歩いてはしゃがみ、また立ち上がり、5歩歩いてはしゃがむ

動きが少し複雑になってきます

あなたは、歩いていることをより意識しながら、自分自身を保ちます

もはや、あなた方は、この程度の単純な行為では、自分自身を失うことはありません

あなた方は、自分自身を保ちながら、歩いたり、掃除をしたり、
何か単純な作業をすでにすることができます

自分自身が薄まってきたような感じがしたら、
少し、その場で目を閉じて、もう一度、クリアに認識しても構いません

今度は、後ろ向きに歩いてください

あなたはより周囲に対して、注意を向けなければなりません

あなたは何かにけつまづいたり、
ぶつかったりしないように、背後のものにも気を配りながら、
後ろ向きに歩いていきます

あなたは周囲のものに細かく気を配りながらも、
自分自身を保っていることができます

では、自分の座席に、そのままの状態で戻ってください
まだ立ったまま

そのままの姿勢で、右手で円を描いてください
右手を動かしてください

自分を保ったまま、この単純な動作はすごく簡単にできると思います

あなたは、そこで窓を拭いてみてください

何かを切ってみてください
何かを切る

単純な動作はできます

では、今度は、右手で円を描きながら、左手で直線を描いてください
右手と左手を違う動作をします
自分自身を失わないように

これぐらい複雑な動作でも、自分自身を失わずにできます

次に、右手で直線を描きながら、左手で円を描きます

OK、では、また右手で円を描きながら、今度は左手で三角を描きます

むしろ、こういった作業は、
自分自身を保ちながらやった方がやりやすいことに気がつくと思います

今度は左手で円を描きながら、右手で三角を描いてください

こういったことをしている方が、逆に自分自身をクリアに認識できます

はい、OKです

もはや、あなた方は、これらの行為によって自分自身を失うことはありません

では、なぜ、日常の中で、失ってしまうことがあるのか

では、つぎに、自分自身を失うのに、
話している時が一番失いやすいということが多くありますので、
二人で向かい合って座ってみてください

もう少し近づいた方がいいかな
相手の目がよく見えるような位置で座ってみてください

まず、お互いに、自分自身にとどまって、相手の目を見てください

その状態をお互いによく覚えておいてください
相手の目の感じ
全体のエネルギーの感じ

では、そこでAさんとBさんを決めてください
二人の中で

では、Aさんが先に、ここ1週間の行動について、Bさんに話してあげてください
で、Bさんは、それを聞きながら、もし、相手が自分自身を失ってしまったと感じたら、
手をあげて教えてあげてください

昨日からさかのぼっていっても構いません
単純に、やったことを話してください

「○○○~○○○」

(この後、交代して行い、お互いに感想などをシェアし合う)


はい、OKです

では、最後にまたしばらく瞑想しましょう

***

2016年1月10日日曜日

憐み

新年明けましておめでとうございます

新年の挨拶をする暇もなく怒涛のように過ぎたお正月でした( ;∀;)

でも、その怒涛の流れの原因となった母との関係に、
昨年の暮れからずっと取り組んできたのですが、
先ほど、ようやくその答えを受け取ることができました(*^^)v

昨年の暮れ、母が転んで軽くおでこをぶつけて、かわいいたんこぶを作っただけなのに、
不安から、救急車を呼び、入院するという騒ぎを起こしてくれました
これで、3年連続、伊豆から呼び戻されることになりました

命に関わるようなことは一切なく、普通なら「あー、痛かった」で終わることが、
自分で大げさなストーリーを作り上げ、どんどん自分で不安にし、
心理的に悪い具合を作りだし、
あげく、「生死をさまよった」などと大騒ぎをしたのです

でも、実際は、小さなたんこぶ、作っただけなんです(;´Д`)

もちろん、本人は意識的にそうしている訳ではなく、
潜在意識的にそうしている訳なのですが、
傍から見ると、「アホか?!」と思うほど、大したことないことで大げさに騒ぎ、
人を振り回すのです

もちろん、不安も強いのですが、
そうやって、注目を集めるために周りの人の気を引いて振り回し、
自分の中に空いた穴を埋めるために人からエネルギーを奪っていくというのが、
昔からのいつもの母のやり方なのです

年老いたからそうなっている訳ではなく、
若い頃からずっとそうなのです

他者には本当には何の関心もなく、自分のことしか関心がない、いわゆる自己チューで、
しかも、自分の身体のことしか関心がない、いわゆる不定愁訴で、常にどこかの具合が悪く、
歩く病気辞典とも言えるほどの、病気依存、薬依存です

というか、病気が印籠、
人の関心を自分に向け、人を使い、人からエネルギーを奪うための印籠なのです
だから、病気になると非常に嬉しそうで、人に武勇伝のように話します

母は、自分のために他の人が犠牲になって尽くすのが当たり前で、
人の気持ちや、そのためにどれだけの犠牲を払っているかなど、全く思い至らず、
当然のこととして周りの身内に犠牲を強いてくるのです

また、自分の思い通りにするために、非常に不快なエネルギーを使い、
人の心をえぐることを平気でしてくる人です

そのため、母は、今までの人生の中で、
周りの身内から激怒され、
「謝って!」と言われることを何度も繰り返しているのですが、
本人はなぜそう言われるのか、全くわからないのです
そして、自分が犠牲者になってしまうのです


そういう母に、暮れも振り回されて、
伊豆と東京を3往復もさせられ、
伊豆でたまっていた仕事もほとんどできずに消耗し、疲れ果て、
さすがに辟易してしまいました(-_-)/~~~
もう、うんざり、勘弁して、って感じです

エネルギー的に、うわあっと私に覆いかぶさり、纏わりつき、
タコの足の吸盤のようなもので無遠慮にエネルギーを吸い取っていくのです

そのため、母といるだけで、私はエネルギーが枯渇していってしまうのです

母は幼児の頃から精神的に成長していず、
私たちに彼女の母親であることを強烈に求めるため、
幼い頃から、エネルギー的に母親役をし、母を背負っているのは私の方でした

誰しも、インナーチャイルドは抱えていますが、
母のインナーチャイルドはあまりにも強く、強烈なのです

そのため、ある意味、母は強烈な反面教師になってくれていて、
たくさんのことを学ばさせてくれてはいるのですが、
そういう親子関係にずっと幼い頃からひどく苦しんできていました

まあ、その苦しみがあったからこそ、この道に入れたのではありますが・・・

この道に入ってから数年経った時に、
一度「母越え」をしているので、
それからは母のことを愛し、
大きく包み込むことができるようになってはいましたが、
どうしても母のことを人間として尊敬できないし、
素直に「好き」とは言えずにいました

なので、母のことを「好き」って言えたら、どんなにいいだろう、
そうしたら、自分の事も本当に完全に受け入れ、愛することができるんだろうな、と思っていました

そのためには、もう一段、私が進化しなければいけないことは、わかっていました


11月か12月位から、パートナーさんと母との間でも、
そういった問題が表面化してきていました

東京にいる間、私はほとんど連日仕事に出ているため、
実際に母の面倒を見てくれているのはパートナーさんなのです

優しく、気の長いパートナーさんも、
人への要求が強く、それでいて、
いつも人の気持ちを踏みにじる母に、さすがに限界を感じ始めていました

同時に、パートナーさんも、何かを学ばなければいけない時だと、
母との関係に向かい合っていきました

その流れの中で、最終的に暮れの母のその大イベントが起こりました

毎回呼び出されている叔母も、いい加減にカンカンに怒っていました

その叔母の怒りに触発されて、
私の中にも母への怒りが沸き起こってきました

こんなバカげたことで振り回され続けること、
いつも理不尽にエネルギーを奪われていること、
そうしなければ罪悪感を持たされてきたこと

母に、そういったことを話しても、
母はすぐに犠牲者になって余計に自分の具合を悪くして、
私たちの気を引こうとするだけなので、
それを繰り返しても消耗するだけだし、
母だって好きでそうしている訳ではなく、
そうしかできない訳だし、
といって、母に無尽蔵にエネルギーを渡していれば、
私が倒れてしまうし、
もう、それはうんざりだし、
どうしたらいいのか、何が答えなのか、
ずっと見てきました

そのプロセスの中で、どうしても手放せなかったのが、
やはり、母に自分が何をやっているのか気づいて欲しいということ
母が一人の人間として、母の課題をクリアして欲しいということ
母は日蓮宗のマイナーな宗派の信者なのですが、
信心を持っている以上、できればこの生の中で可能な限り、霊的進化も遂げて欲しいということ

一人の人間として、
母も一人の人間として進化して欲しいという思いは、どうしても手放すことができませんでした

そうしてワークしている中で、
病院の医師が「リハビリのために後数日入院したらいかがですか?」と言ってくれたのを機に、
母をそのまま入院させて伊豆に帰ることにしたのですが、
その時に拗ねてロクに口も聞かない母の姿を見て、
私の中に「憐み」が沸き起こったのです

一人病院にいる母が気の毒なのではなくて、
人間としてそういうあり方しかできない母が心底「憐れ」に感じたのです

今まで、人を「憐れむ」というのは、
何か人を下に見ているようで、傲慢なようで、
ずっと抵抗がありました


でも、その「憐み」が起こった時、
私は母のとても近くにいました

母に寄り添っていました

何かが私の中で落ちたのを感じました

でも、それでこのワークが終わったわけではありませんでした

3日程前、決定的なことが起こったのです

お正月は私の子ども達も来て母も一緒に楽しく過ごしましたが、
問題は、今回伊豆でリトリートを行う間、
母を一人で東京に置いておけないということでした

生活自体は一人でも大丈夫なのですが、
こういう場合、必ず何かを引き起こして私たちを呼び戻そうとするからです
ここ3年間の実績がそうであり、
まさに強度の「依存」の人で、私たちのことは何も考えていないどころか、
仕事の重要性も理解できず、自分で生きようともせず、
「何か起こせば、病気になれば、転べば、私のところに来て私の面倒を見てくれる」と、
そのパターンを繰り返すのが目に見えているからです

お正月の間も、何かと否定的なことを言って、
私やパートナーさんの心をえぐり、
エネルギー的に覆いかぶさって来る母に、
再び「はあ~っ」となりつつ、
リトリートの間母をどうするか、私とパートナーさんとで奔走しました

ショートステイはどうしても嫌だという母のために、
お泊りで利用できて、母が息詰まらないで過ごせるデイホームを探したり、
伊豆で滞在できるホテルを探したり、
でも、母にとっては自宅で過ごせる今の生活をできるだけ維持しながら、
非常時に備えておくのが一番いいのではないかと思い、
家政婦さんを雇って非常時に来てもらえる算段を探したりしましたが、
そうやって走り回って疲れ果てている私たちの姿を見ていながら、
母の下した結論は、「ショートステイに行く」というものでした

母としては、本当は私たちが仕事を放棄して、母と一緒にいることを期待していたのです
もう、本当に子どもな人ですが、
それが叶わないことがわかると、私たちに罪悪感を持たせるためにそういうことをするのです

それはそれでいいのですが、
ショートステイを利用するにあたっては、利用料を下げるためにも、
たくさんの書類を書かなくてはなりません

資産から収入なども調べて書き込まなくてはなりませんし、
通帳のコピーから何から、揃えるものがたくさんです
全ての荷物に名前も書かなくてはなりません

私が仕事に行っている間に、
それを必死にすでに疲れ果てているパートナーさんがやってくれていたのですが、
夜、私も一緒に書類に書き込みをしている時に、
母がそれに関して、
パートナーさんに対して非常に不快なエネルギーを投げつけるということが起きました

そうやって、いつも感謝するどころか、自分の思いと違うために、
文句を言って不快なエネルギーを発するのです

さすがの理不尽さに、パートナーさんも怒りが爆発しました

でも、なぜパートナーさんが怒ったのか、母にはわからないのです

怒られればしょぼんとなりますが、
なぜ相手が怒っているのか、わからないのです

自分の言葉が、エネルギーが、どれほど相手を傷つけたり、えぐったりするか、
あるいは、相手にとってどれほど理不尽か、わからないのです

いや、あるレベルではわかっているのですが、
それよりも自分の思いが強すぎて、むしろ、それを押し通そうとするために、
それを使うのです

そういう方法しか知らないのです

そういう母の姿は、ある意味、本当に強烈な「鏡」にもなり、
自分自身を見て行くための教訓にもなります

こういう母に育てられている以上、私も必ずどこかで同じことをしているのだと、
自分自身を見て行くことができます

そうやって自分を見ながら、
仕方ないので、とにかくしょぼんとなっている母をなだめながら、
翌日に備えて荷物を全部まとめ、
母をお風呂に入れました

背中が曲がっているのですが、ひどく片側にねじれているのを見て、
それをさすりながら言うと、
母はいきなり「そうよー!曲がっているのよ」と、いばり始め、
「だから私を労わって」エネルギーをぐわーっと出して来たのです
「私は労わられて当然!」と、いばり始めたのです

あれー、いばってるよ、この人・・・そう、この人は病気とかそういうことをいばるんだよね・・・

その時にまた、「憐み」が私の心に沸き起こりました

背中がひどく曲がっていることがかわいそうに思ったのではありません

そういう風に、自分で自分に責任を持って生きていくことができず、
人に依存することでしか生きられないことが、「憐れ」だったのです

そういうことが起きて、
翌日、母はショートステイに行き、私たちは伊豆に戻って来ました

そして、先ほど、パートナーさんと話していて、
その「憐み」のエネルギーを改めてよく感じてみると、
ベースにあるのは愛であることがわかりました

今まで、人を憐れに思うことに抵抗がありましたが、
実際に起こった「憐み」を体験してみると、
相手を下に見ることもなく、むしろとてもその人の近くにいて、
寄り添い、その人の深いところの痛みを共有していることがわかりました

そして、それを私に教えるために、
母がそういう強烈なパーソナリティを持って私の母となってくれていたんだと思いました

私の中に、母に対する感謝が沸き起こりました

以前、母越えが起こった時も、
表面的な母の姿の奥にある、「魂としての母」の思いに対する感謝があふれました

そして、今回も、それが起きました

「憐み」が起きる時、
初めて、本当に「魂としてのその人」に出逢うことができるのかもしれません


そして、真の「憐み」は、愛から沸き起こるものであることがわかりました

私が今後、母のことを「好き」と本当に思えるかどうかはまだわかりません

でも、今まであった母に対する「嫌悪感」は確実に消滅しています


そして、この「憐み」という深いスペースにようやく辿り着いたことに、
大きな感謝を感じています


今年は、違う段階の年になりそうです(*´ω`*)



神様、ありがとう
そして、お母さん、ありがとう