2015年11月20日金曜日

「私が私であること」の歓び~「私」の秘密 その2

つづきです♪

さて、
外側の何かの「行為」に集中し、没頭し、
潜在的な「自意識」から一時的に解放されている人に、
何が起こっているのでしょうか?

実は、
そこには「意識的な」「私」が現れているのです!


人々の通常の状態である潜在的な「自意識」は、
実際のところ、「行為」に参加しているのかしていないのか、
よくわからない状態です

ちょっと考えてみればわかることですが、
それほどの集中もせずに何かの行為をする時、
人はたいてい、他のことを考えたりしながらやっています

「今日の夕飯何にしようかな~」と思いながら仕事をしていたり、
心配事に気を取られながら誰かとおしゃべりしたりしています

そこに現れているのは潜在的な「自意識」だけで、
そこに無意識に引き戻されたり、行為に戻ったり、
行為自体もある意味無意識にやっていたりします

1日の行為のうち、ほとんどがこんな状態です

「自意識」にまつわる頭の中のおしゃべりで忙しく、
それらの潜在的なエネルギーによって妨げられ、
行為に集中できる時間はごくわずかなものに過ぎません


ここで、もうひとつ、
潜在的な「自意識」に関して非常に重要なことを書いておきますね(*´ω`*)

この「自意識」は、
常に思考や感情、感覚に糊付けされています

つまり、
その時々の思考や感情、感覚が自分だと思っているのです

それらを切り離すことができずに、
その時々の思考や感情、感覚に完全に巻き込まれています

なので、1日のうちほとんどの時間を、
「自意識」と思考、感情、感覚の中をグルグルと、
まるで狭いメリーゴーランドにずっと乗り続けているかのように、
グルグルと回り続けています

人はいろいろなことを体験していると思っていますが、
よくよく観察してみると、
大抵は見知った思考や感情、感覚を様々な出来事を通して繰り返し体験しているだけです

だからこそ、エスカレートしていくのです
つまり、たとえば、
初めてゲームをしたら、その刺激に興奮して楽しかった
だから、また同じゲームをする
でも、繰り返していくうちに、それほどの刺激を受けず、楽しくなくなってくる
それで、違うゲームをする
それも、繰り返していくと、つまらなくなる
あらゆるゲームをし尽して、刺激を受け取れなくなると、
そのゲームで得た興奮を実際の他人から得ようとします
そうやって、
どんどんとエスカレートしてきます

通常は、何か別のシステムが働いて、
そのエスカレート自体に自ら危険を感じて、やめますが、
その別のシステムが壊れている場合、
それをとめる手立てはありません

おっと、ちょっと話が横に逸れましたね(;´Д`)、、
エスカレートする前に元に戻りましょう(;´Д`)

要するに、
「自意識」と思考、感情、感覚がワンセットになって、
それらでパンパンに膨らんだ状態、
それらと完全に同化した状態が、
平均的な人の、自分です

そういう自分を感じてみてください

マインドの私、パーソナリティの私、エゴとしての私

それは、何か、とても狭い、制限されて重たく粘るような、
そしてネガティブな味わいのある感覚ではないでしょうか?

それしか知らない人にはわかりづらいかもしれませんが、
とてもではないですが、この私が「素晴らしい」とは感じられないでしょう

まあ、最近は「自分大好き」人が増えてきているので、
そうとは限らないかもしれませんが、
では、「自分大好き人」が本当に自分を知り、愛しているかと言うと、
ちょっと違うように思います
むしろ、何かを見ないようにするために、
補償作用として「自分大好き」であるように思えます

つまり、「イメージの自分」が大好きなのです(;´Д`)
実際の自分が好きなわけではないのです
とても根深いコンプレックスを抱えていることが予想されます

それはまた別の問題があるので、
ここでは深く言及しませんが(すぐに横道に逸れますね(;´Д`))、
ここで重要なことは、
目覚めていない人は、
その自分しか知らない、ということです

そして、そこから逃げ出したいと思っています

何かの行為に没頭できた時、
一時的に、人はそこから逃れることができます

そして、その解放感、充実感に喜びます

でも、
残念なことに、それはいつしか終わり、
終わったとたん、また、「自意識」の海にどっぷりとつかってしまうのです

「ああ、幸せな時は過ぎ去ってしまった」・・・・・


でも、待ってください(-ω-)/

最初に書いたことを覚えていますか?

そう、
「行為」に集中し、没頭している時、
実は、そこに「意識的な」「私」がすでに現れているのです!!

考えてみてください

「自意識」であるがいなくなった時に、
その状態に気づいているのは誰なのでしょう?

その状態を体験しているのは、いったい誰なのでしょう?

そう、それが「意識的な私」なのです

(本当はその「知性」なのですが、話が複雑になるので、ここでは「意識的な私」とだけ言っておきますね。それに関しては、もう少し、皆さんの理解が深まった時に書きましょう)

何かを意識的に行う時、
実は、「意識的な私」、つまり純粋な「私」がそこに参加しているのです

でも、それはあまりにも透明で純粋で繊細なため、
思考や感情などに張り付いて同化し、不透明で色づいている「自意識」しか知らない人は、
それを感じることができません

せっかくそこに「真の自己」が現れているのに、
いつもいつも逃してしまっているのです

本当に惜しい!のです(>_<)

ですから、
ただ行為に没頭してがいなくなる体験だけでは、
「悟った」とは言えないのです

「悟り」に近い状態と言うことはできるかもしれませんが、
まるでベクトルが逆なんですね

「悟り」に近づける可能性のある状態、と言うのがより正確でしょうか(^.^)

もし、その状態だけを追い求め続けているならば、
永遠にその人は潜在的な「自意識」の海から本当に出ることはできないのです

恩寵によって、ある時、突然、ハッと気づくことがあるかもしれません

行為やその状態に向いていた注意のベクトルが、
ある時突然、向きを変えて、
その体験者そのものに向く

もし、「行為」に没頭して私がいなくなった時に、
そこに現れている透明な「私」を知ることができたら、
その時、その人は「悟った」と言ってもいいかもしれませんね

私には、禅の公案はそれを使っているのではないかと思えます

答えの容易には出ない難問を投げかけることによって、
弟子に、潜在意識的な思考が沸き起こる隙なく、意識的に熟考させるのです

公案は、正しい答えを出すことが目的ではなく、
意識的に熟考することが目的なのではないかと思うのです

意識的に集中して公案について熟考している間、
それに参加している「真我」が現れています

弟子はそうとは知らずに、
必死に考えます

公案の答えを得る時こそが「悟る」時だと!( `ー´)ノ

来る日も来る日も、休む暇なく考え続けます

そして、それがエネルギー的に十分に熟してきた時、
師は「それだ!!!」といきなり弟子に切りかかります

突然の事にハッと驚いた弟子は、熟考も瞬間的に手放し、
後にただ残っている「真我」に気が付く、という算段です(*´ω`*)

めでたし、めでたし(∩´∀`)∩


がいなくなり、行為だけが起こっている時、
その行為すら手放したら、
そこにあるのは純粋で透明な「私」です

それは、
行為や思考や感情、感覚とは全く切り離されて関係のない、
行為や思考や感情、感覚より先にあるもの

軽やかで開けていて、
振動数が高く微細で、
クリアで、何の障りもなく、何の隔てもなく、
すでに至福の質を携えているもの

それは、シンプルに「私」

「私が」「私は」「私に」「私を」「私より」「私から」「私も」「私と」などと、
助詞が一切つかない、
純粋な「私」なのです

潜在的な「自意識」であるとは、
次元が異なっているのです

それこそが、
私たちの真の姿なのです

それを知るのが「悟り」です(*´ω`*)


とはいえ、もちろん、
その「私」もまたすぐに見失ってしまうでしょうから、
本当に「悟った」とは言えません

ただ、「悟り」の状態を一時的に体験することができた、と言うのが最も正しいでしょう

本当の「悟り」に到達するためには、さらなる修行を必要とします


***


わたし、という時、
と「私」の区別ができていないことが、
「悟り」の教えを珠玉混交にしてしまっています

たとえば、非二元の道を歩く人達の自称「覚醒体験」をyoutubeで見ましたが、
彼らはがいなくなる体験をしているとのことでした
それが「悟り」だということです

が落ちたことは、素晴らしい体験です(*´ω`*)

そこを超えたところへとシフトしたことは、
本当に素晴らしいことです(∩´∀`)∩

でも、残念ながら、「私」は知らないままです

そもそもがその区別を知らないがため、
さらに繊細な「私」を知ることができずにいるのです

もっと好意的な見方をすれば、
その「私」を体験してはいるものの、
決してわたしであってはならないので(「無我」でなくなってしまうので)(;´Д`)、
それを宇宙意識とか、純粋意識とかそういうものとして認識、解釈しているかもしれません

いずれにしても、それは、言ってみればネガティブな「悟り」です

逃げ出したくてたまらなかった自分からのエスケープに過ぎないのです

全ての問題の根源である「自意識」から逃れてしまえば、
後は何の問題もなし・・・と思いたいのかもしれませんね

でも、それは残念ながら、
釈迦の説いた「無我」を浅く理解している教えに、
非常に強く条件づけられているように思えます

全ての想念も行為も、「ただ起こっていること」と言います
「私はいない、全てはただ起こっている」と・・・

そう言っているのは誰なのでしょう?

彼らは、それも、「ただ起こっていること」だと言うでしょう

シンプルに考えてみてください

どれほどのトリッキーなマインドを持っていれば、そう言えるのかを・・・



ポジティブな「悟り」は、
ネガティブな「悟り」の体験からさらにその体験者である、
真の「私」へと辿り着きます

私たちは、
真の「私」も、潜在的な「自意識」も併せ持った存在です

真の「私」の次元にも、の次元にも生きている、
そして、神なる次元にも生きている、全次元的な存在なのです

それが人間というものの自然な有り様です

私たちのあらゆる想念や行為は、
「ただ起こっていること」ではなく、
私たち自身にも責任のあることです

私たちは、「ただ起こっていること」の寄せ集めより、
はるかに崇高な存在なのです

そして、
真の「私」に生きる時、
私たちは絶え間のない、理由のない、この上ない至福で満たされます

究極の充足を知るのです

そのスペースから、
しょうもないを包み込んで生きていけるのです

確かに、究極の見地からすれば、
「私」もただ起こっていることです

でも、それは「私」がいない、ということではありません

「私が「私」であること」を知る時、
歓びの爆発を体験します


「私」が起こっていること、
それこそが「奇跡」であることを知る時、
私たちは本当に謙虚になるのです


                                                   (つづく)






























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