2015年11月19日木曜日

「私が私であること」の歓び~「私」の秘密 その1

今日からリトリートが始まっていますが、
始まる前に生徒さんから質問があったことに関して書こうと思います

質問は、
「何かの行為に没頭して「私」がいなくなり、行為だけが起こっている状態」が悟りの状態かどうか、ということに関連していました

これはとても大切な質問ですね(*´ω`*)

たとえば、ピアノを弾くのが大好きでたまらない人が、
次々に弾いているうちにどんどん没頭していくと、
やがて弾いている人がいなくなって、
ただそこには音楽だけが起こり、音楽が勝手に奏で出す、というような状態

たとえば、勉強に集中しているうちに、
我を忘れて勉強に没頭している状態

たとえば、バスケットの試合で、何の雑念もなく完全にプレーに集中して、
練習以上の力を発揮するような状態

たとえば、職人さんが仕事に集中しているうちに、
無我の境地でただ身体だけが動き、ものを作りだしている状態・・・などなど

こういった状態は多かれ少なかれ、誰しもが何らかの形で体験したことがあるでしょう(*´ω`*)

私も昔、密教を学んでいる時は、この「無我の境地」であらゆる行為ができるようにと教えられ、
四苦八苦した覚えがあります(;´Д`)

それは、常に中心で観察している「私」を、
「行為」という「対象物」の方に合わせていくというものでした

もちろん、それは間違った方法であり、
どうやっても不可能なことでしたが、
そういった教えが仏教において当たり前のように言われているのは、
こういう「無我」が悟りの境地であるという、
残念ながら浅い解釈が原因で起こっていることなのでしょう

では、こういう「無我の境地」が悟りなのかどうか、検討していきたいと思います(*´ω`*)


まず、覚醒前の平均的な人が普段どういう状態であるかについて、
確認しておきたいと思います

人は通常、いつもなんとなく「自分」を感じています

それを潜在的な「自意識」と呼びましょう

意識的に「自分」を感じているのではなく、なんとなくぼんやりと感じているので、
潜在的な働きと言えます

歩いている時も、誰かとしゃべっている時も、仕事をしている時も、何をしている時でも、
通常はぼんやりと「自意識」を感じながら、それらの行為とその「自意識」を結び付けています

つまり、「私が歩いている」「私が誰それとしゃべっている」「私が仕事をしている」という具合です

逆に言えば、何をしていても、
常に人はぼんやりと「自分」へと引き戻されているのです

「悲しい」「痛い」のも、ただ「悲しい」「痛い」のではなく、
「私が悲しい」「私が痛い」なのです

それは通常、誰か他人と関わっている時に顕著になります

「私はどう見られているか」
「私を見て」
「私が攻撃されている」
「私を守らなければ」
「どうすれば、私に有利に事を運べるか」
「どうやったら、私が思うように周りを動かせるか」・・・・などなど、
人は果てしなく「自分」に関することで頭をいっぱいにし、
どう「自分」を有利にしていくかでいつもいつも忙しくしています

そういう、「私は」「私は」「私が」「私が」と普通に人が言うを、
「自我」と呼びます
別の言い方をすると、エゴですね
もしくは、パーソナリティとしての私ですね
マインドとしての私、でもありますね

そういった「自我」は、幼児期に形づくられていきますが、
この二元の世界で生きて行くために必要な機能でもあります

ただ、それがあまりにも過剰なため、
いつもいつも「自意識」を感じ、に引き戻されているために、
人はある種の窒息状態に陥ってしまっているのです

いつもいつも、「自意識」という海の中にいるかのようです

「自意識」の海で溺れて窒息しているのですね

「自意識」にべったりと糊付けされて、
それに振り回され続けていて、苦しい(>_<)

別の言い方をすれば、
「マインドの奴隷」状態ですね

もちろん、ほとんどの人はそれに無自覚です

それでもなお、いつもいつも糊付けされている「自意識」から解放されたいと、
どこかで願っているのです

なぜなら、
「自意識」から解放された瞬間だけ、
「自由」な感覚が得られるからです

フレッシュな空気を吸った時のように、
初めて息ができるかのように、
解放感を味わえるからなのです

まして、それに自覚的な人は、
「この自分さえいなければ!」と、
何とかして「自分」から逃れたいと、当然思うことでしょう

もう、うんざり!なのです

そういう状態の人が、時として何かに集中する

外側の行為に集中する時、
本当に「集中」が起きた時、
その人に何が起きるのでしょう?

意識、もしくは注意が全てその「行為」に向くため、
いつもいつも引き戻されていた「自意識」から、
意識が引き剥がされるのです

人は初めて、「自意識」に糊付けされずに、「行為」に没頭できたのです

意識の全てを「行為」に投入できたのです

もはや、そこに「自意識」はない!

いつもいつも糊付けされていた人にとって、
それはそれは大きな解放感でしょう(*´ω`*)

窒息状態から、ふっと海面に顔を出したようなものですからね♪


では、これは悟りの境地でしょうか?

皆さんはどう思われますか?

実は、こういう状態の時、
その人自身が気づいていない、とても重要なことが起きているのです(*´ω`*)

長くなるので、いったんここでアップしますね

またまたシリーズになりそうな予感~(^.^)








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