2015年10月15日木曜日

魂への「道」

私たちは、魂へと至る「道」の教えをシェアしています

それは、霊的進化の「道 The Path」です

それはもちろん、神へと至る「道」でもあります

それでもなお、私たちは「魂」の目覚めを人間としての最終地点としています

というのも、
「魂」が完全に目覚めるためには、
神と完全に合一し、
「魂」を超えたものの中へと溶け込んでいく必要があるからです

「魂」を超えて初めて、
「魂」の全体を知ることができます

もちろん、「魂」として目覚めた後も、
神の無限性、絶対性、完全性、全体性の中へと拡大していく「進化」は続き、
それに終わりはありません

なぜ、私たちが「魂」の目覚めを最終地点としているかというと、
神性とひとつになる体験をしてもなお、
その体験者である「魂」に気づかないことが往々にしてあるからです

よく、悟りの体験をした人の話の中で、
「私がいない」と言う人がいます

たとえば、それは非二元の道の人たちの決まり文句でもあります

それは、「私」を超えたものを体験していることに相違はないのですが、
パーソナリティとしての「私」、
つまり、感情や思考と自己同一化している「私」しか知らないために、
神と一体になっている時に、
そのパーソナリティとしての「私」、つまりマインドが消え去っているため、
「私がいない」ということになってしまうのでしょう

では、
「私がいない」という状態を体験しているのは、誰なのか?
「私がいない」と言ってるのは、誰なのか?

悟りの体験をしたのであれば、
そこにその体験の体験者が必ず存在します

神との合一を体験したのであれば、
その体験者が必ず存在するのです

体験者がいなければ、
何の体験も起こりません

神そのものに溶け去っていることを「知っている」誰かがそこにいるのです

でなければ、どうして後からその体験について語ることができるのでしょう?

その体験者こそが、「魂」なのです

それが、「純粋な私」、「透明な私」、「真の私」、「真我」なのです

感情や思考、感覚といったマインドとは全く関係のない、
全く違う次元に住している、
本当の主体としての「純粋な私」です

それは非常に微細で透明なため、
それを認識するためには、
感受性が成熟していなければなりません

いつも粗いマインドに同化し、チューニングしている感受性では、
「純粋で透明な私」を認識することができないのです

そして、「魂」の認識のないワンネスの体験は、
やはり完全とは言えないのです

もちろん、
神との合一、ワンネスの体験は、
私たちが通常、この二元の世界で様々なことを体験するのとは、
魂の状態というか、あり方、もしくは立ち位置が違っているので、
たとえば、
私たちがこの世界で何かの対象物や対象となる出来事を体験するように、
ワンネスを体験するわけではありません

それは、完全に違う体験です

二元の世界に生きるマインドで想像できるものを超えています

なので、
それを体験している間、
この二元の世界で何かを体験している時と同じような形で「魂」を感じている訳ではありません

神なるものと「魂」の間になんら境界線はありません

それでもなお、
私たちは「神」を知るのと同時に「魂」を知っているのです

「私は神」であり、同時に、
「神」=「魂」ではなく、
あきらかに「神」>「魂」であることがわかり、
「魂」が境界なく「神」へと拡大していることがわかります

この状態がこの二元の水平の世界に対して起こった時、
「すべては私」という体験になるのでしょう

そして、この「魂」に気づくということ、
「魂」として完全に目覚めるということが、
実は私たちを完全なる充足、完結へと連れていくのです

「私がいなくなる」ことは、
消極的な解脱ですが、
「私が私である」ことは、
ポジティブな超越なのです

それゆえ、
私たちは「魂の目覚め」を、人間としての最終地点としているのです

実は、
完全なる「神性の実現」と、
完全なる「魂の目覚め」は、
同時に起こります

それらを切って離すことはできません

「魂」が神への通路であり、
神なるものへの拡大によって、
初めて「魂」の全体を知ることができるのです

そこに至ることが、
私たちがシェアしている「道」なのです













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